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蓮如上人は生涯においてたくさんの御文章をお書きになりました。 蓮如上人が御文章をお書きになられた目的は、親鸞聖人によって開かれた阿弥陀如来のみ教えを、わかりやすく説明されることにあったようです。そのためいろいろな状況に応じてその内容を書かれています。

 蓮如上人の書かれた御文章は、現在わかっているだけでも250通に及びます。しかしその多くの御文章のなかから、実如上人が中心になって80通を選び出し、5帖にまとめられました。これが私たちが法要の後などに拝読し頂いているものです。
 この5帖御文章のなかで超勝寺とその門徒の方々について書かれたものが4通あります。その4通の御文章とは、第1帖の第11通「電光朝露」章・第12通「年来超勝寺」章・第13通「此方十劫邪義」章・第14通「戒誹謗」章で、文明5年(1473)の9月中旬から下旬に書かれたものです。

 この4通の御文章の内、第12通にはその冒頭に「是モ超勝寺ニテ」とあり、第13通の冒頭には「是ハ超勝寺ニテ」、さらに第14通にも「是も超勝寺ニテ」と、もともとの御文章には書かれていたことが、現在残されている実如上人が門末に授与されたものから知ることができます。このことから考えて、蓮如上人は少なくとも文明5年の9月下旬には超勝寺においていくつかの御文章を書かれたことがわかります。そして実如上人が御文章を5帖80通に選んで編集されたときには、蓮如上人がこれらの御文章を書かれた意図と状況を示すために、このような「超勝寺ニテ」を冒頭に書き表されたようです。ところが実如上人が中心となって編集された5帖の御文章が、次の証如上人の時に木版印刷されることとなり、この時各冒頭に書かれていた「超勝寺ニテ」の表記がはずされました。このことは、これらの御文章に書かれている法語が、特定の寺院や門徒に対してのみのことではなく、あくまでも普遍的に全ての浄土真宗の門徒にとって注意する必要のある内容ということを知らせるためと考えられます。このようにして「超勝寺ニテ」の言葉がはずされた御文章は、その後本願寺において歴代門主が木版印刷されるに当たって表記されないままで今に受け継がれていったことがわかります。

 このようにもともと実如上人の時に編集された5帖の御文章には「超勝寺」と書かれた分が3通あったのですが、これらは全て蓮如上人が書かれた時期は「文明5年9月下旬」となっています。蓮如上人が書かれ、実如上人の時に編集されました御文章には5帖目が年代が記されていない以外は、ほとんどのものには年月日が記されています。ところが先にもありますように超勝寺において書かれたとあります3通の御文章には「下旬」という曖昧な表記でしかありません。このことについて注目する必要があるのは、その前にあります第11通の「電光朝露」の御文章です。この御文章には、前にあげた3通の御文章と同じ表記方法として「文明5年9月中旬」という年月日の書き方がなされ、先の3通にあります年月日の書き方と共通するという指摘がなされています。このような年月日の書き方は、蓮如上人の書かれた御文章のなかでは非常に特殊なもので、このことからこの御文章も蓮如上人が書かれたのは先の3通と同じ超勝寺において書かれたものと考えられています。

 そこで蓮如上人と超勝寺の関係についてですが、超勝寺は本願寺第5代綽如上人の二男鸞芸によって室町時代の初めに開かれた寺院です。いらい北陸地方における真宗の中心的存在としての役割を果たし、蓮如上人が本願寺を継職されて真宗が全国的に広がっていく以前から本願寺と浄土真宗の教えを守っていたのです。

 そのような超勝寺と本願寺の関係において、寛正6年(1465)に比叡山の衆徒によって京都東山の大谷本願寺を破却された蓮如上人は、文明3年(1471)、越前吉崎に坊舎を建立し、しばらくここにおいて北陸布教に専念されました。蓮如上人がこの時越前吉崎の地に来られたのも、古くから本願寺と関係を持ち、本願寺を支えていた超勝寺とその門徒の方々が越前にいたことが大きな要因になっていたことが想像されます。このことは吉崎より来られた蓮如上人が、しばしば吉崎より超勝寺に赴かれていることからわかります。そして文明5年1月にも蓮如上人は藤島に移られて、しばらくここに滞在されちたようです。

 このように本願寺にとっては古くからの支援集団である超勝寺とその門徒は、蓮如上人にとって重要な存在であったことは確かなことです。

 蓮如上人が吉崎に移られた頃、超勝寺とその門徒の間では、真宗教義の根本でもありますよ仏法の心得が異なって理解されつつあったようです。本来会合というものは、普段は何気なく暮らし勝ちであります日々をせめて月に1度でも信心について語り合う場としてあるはずにも関わらず、超勝寺の門徒においては会合に際して我先にと上座に座ったりして他のものより勝れていると思われることが信心を得たものであるように思うものがいるようです。真宗における会合の本来の意味を理解すべきですと言われています。また真宗の信心について自分が最も信心を得ているように思う者がいるのは誤りであると糺されています。さらに真宗門徒が周辺にある他宗派を非難することは良くないことで、越前においては平泉寺や豊原寺といった寺院をあげて述べられています。

 このように3通の御文章は、超勝寺において書かれたもので、その内容は、真宗の念仏者としてのありかたを示されたもので、この頃、超勝寺の門徒の間で教義上問題が起こっていたことが分かります。そこで蓮如上人は、これら超勝寺とその門徒にたいして、これからの行動を糺すために書かれた御文章が、この3通です。

 蓮如上人が超勝寺とその門徒に対して書かれた御文章はこの3通だけでなく、もう1通あります。それは第11通の「電光朝露」章です。この御文章は、人間の命はまさに稲光や朝の露のようにはかないものであるのだから、いくら富や力を蓄えてもいざ死に際しては、死後の私たちを導いてくださるのは阿弥陀様しかありません。ですから往生の素懐を遂げるためには阿弥陀様をたのみなさいというものです。この御文章の言葉は私たちが普段よく接しています「白骨の御文章」と共通する内容ですから真宗門徒として非常に重要な御文章と言えます。このような御文章も超勝寺とその門徒に対して蓮如上人は書かれたのです。

 これら超勝寺とその門徒に書かれた4通の御文章には、真宗門徒についての根本的な教えについて触れられていますが、これは超勝寺とその門徒が蓮如上人や本願寺にとって非常に重要な存在であることがわかります。つまり超勝寺とその門徒は、蓮如上人前後の本願寺を支えた中心的存在であったことを、これらの御文章を通して今私たちに伝えてくれるのです。

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