ホーム りゃくし おがみのしおり ごぶんしょう
鹿の子の御影

当山は藤島庄の地頭斯波豊郷の請により、今から600年余前の明徳3年(1392年)5月29日、藤島城主斯波左馬介豊郷の勧進によって本願寺5世法主綽如上人の御二男頓円鸞芸法印を寺主に迎え開創した寺である。時は正に初夏、城域を埋める白藤の花房が薫風にゆれていた。白藤の花は、城主の殊に覚(め)でた花であったので、白籐山超勝寺と名づけられた。文明3年(1471年)本願寺8世蓮如上人が吉崎に御坊を営まれるや、当山の4代蓮超は、和田の本覚寺、荒川の興行寺などの諸寺と共にその周辺に御堂を建て、御坊守護のための多屋衆に加わった。そして上人の御女蓮周尼を内室に迎えたので、寺は本願寺との御縁は更に深いものとなった。現存の「鹿の子(かのこ)の御影」は、その時形見として上人が蓮周尼に与えられたものである。

文明5年8月吉崎御坊は、加賀安楽寺の覚力坊の率いる衆徒のために攻撃をうけ、上人は一時難を藤島の当山に避けられ、約1ヶ月間御留錫された。9月領主敏景等の勧(すす)めに従い、上人は吉崎に帰山されたが、藤島御滞留中に御覧になった当山の門徒に深く御心を寄せられ、超勝寺門徒御教戒の御文章をお書きになられた。吉崎開教の大業を遂げられた蓮如上人は、屡々(しばしば)この寺に御逗留になり、越路をお去りになる折、形見に植え置かれた椿が「蓮如椿」と呼ばれ境内に残っている。古老の言葉によれば、葉面は6字名号が浮かび出ていたと伝えられている。文明6年3月28日加賀国富樫(とがし)氏に内訌(こう)があり、泰高(やすたか)が本願寺門徒と結んだので、吉崎は政親(まさちか)のために襲われ、当山もその余波をうけて兵火のために焼失した。

以来、当山5代実顕(じっけん)はその子実照と共に、政親を法敵としてしきりに一揆(いっき)を催し、長亨2年(1488年)5月26日遂にこれを亡し、加賀国を手中に収めて本願寺の支配とした。1宗の門徒が1国の守護大名の勢力を亡し、門徒の領国をつくったことは、有史以来の出来事であった。実顕らは更に朝倉氏を滅し、越前をも支配しようとし、永正3年(1506年)6月九頭竜川を挟んで一大決戦を行ったが、朝倉貞景、宗滴らのために敗れ、御堂は破却された。そこで加賀に逃れ、小松在矢田野村林に寺地を定めた。しかし門徒の国加賀では別格の地位が与えられ、天文15年6月御堂が焼失した際は、加賀国内はたとえ他の寺社領であっても当山のために、公用金より見舞を納めることがなされた程であった。
実顕の弟勝祐および7代顕祐は、甲斐の武田晴信と通じ、弘治元年(1555年)越前への侵入を図ったが果たせなかった。翌2年本願寺は下間頼言、頼良らをして、朝倉氏と和睦を行わせたところ、顕祐はこれを喜ばなかったので、本願寺の御勘気にもふれ、越前復帰の計も果せなかった。

しかし間もなく本願寺11世顕如上人は、当寺が多年催した一揆は、秘事法門を排し宗祖親鸞上人の御教義護持の一念にもゆる行動であった点を御憫(びん)察になって、特に取り立てて寺を藤島の旧地に再興された。その後、天正12年平泉寺の内紛に乗じて本覚寺等とともに平泉寺を滅し、翌3年信長の越前討伐軍を今庄の燧城(ひうちがじょう)にむかえ討って敗れ、藤島の寺も兵火にかかり鳥有に帰した。慶長7年(1602年)本願寺が東西に分立するや、当寺もまた本願寺の命により、東西に分立し、兄の頓恵は教如上人に従って東超勝寺を建て、舎弟准照は准如上人に従って西超勝寺を創建した。

藩政時代は、福井藩は当寺の格式を重んじて知行を免じ、藤島、中ノ郷、上中三ヶ村を「地門徒」として、寺内町的性格のもとに門前支配の一部を認めてきた。また水を引き入れることが禁ぜられていた藩直轄の御上水の一部を「御前水」として、寺内に引き入れることを特認されてきた。又、この寺の祖師聖人御絵像は、享保4年、松岡城主の勧進によって全国末寺で初めて御下附になった等身真向きの御真影(しんねい)である。松岡城主が使者を本山に差遣わし、この御影の下附を懇願したが聴き入れられず、翌朝白装束に身を固め、再び聴き入れられないときは自刃を覚悟で本山に懇願したところ、本山ではその熱意に動かされて下附されたと伝えられている。嘉永6年(1853年)6月28日朱雀門を残し、諸堂ことごとく焼失した。

明治15年4月13日別格寺の格式指定をうけ、昭和7年吉田郡円山東村四ッ居の平岡山麓に長松寺を分立し、10年4月別格別院超勝寺となり、西本願寺23世光照門主が住職を兼務された。ついで昭和12年5月本願寺蓮枝男爵壬生照弘(明如上人の直孫)が法嗣なった。昭和23年6月28日大地震により、本堂を残して諸堂ことごとく倒壊したが、鉄筋コンクリート造りの白籐会館の建立をほぼ復旧した。

以上の如く当山は開創以来、本願寺とは特に深き御縁故があり、戦国のころは一向一揆(いっき)の中心勢力として、国守と相争うこともあったが、秘事法門を排して御開山聖人の御教義護持のために、開創以来今日まで貫いてきた由緒深き寺である。



このページの先頭へ