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               壬生 佐久子


 昭和二十三年六月二十八日、福井大震災によって超勝寺の建造物はご本堂、住職の新居を残してことごとく倒壊しました。因みに震災前のお寺の全容は、
 本堂  木造入母屋瓦葺伽藍造     十七間四面
 庫裡  木造切妻瓦葺     梁間八間 奥行九間
 書院  木造入母屋瓦葺 (対面所)     梁間九間 奥行十三間
 新書院 木造入母屋瓦葺     梁間九間 奥行九間半
 上御殿 木造入母屋住宅造
 鐘楼堂 木造入母屋瓦葺
 鼓楼  木造
 山門  木造
 御門  木造 (勅使門)  
その他土蔵等が建てられておりました由、東藤島村史に記載されております(発行・舟木三右ェ門氏、編集・野村英一氏)  嫁いでまいりました十二月、地震の後はきれいに片付けられ庫裡(台所や帳場を含む)や本堂までの渡り廊下(板を並べただけでしたが)などが廃材で一応整えられておりました。  
 地震当日の様子は祈りにふれ御前から、余震の続く中、阿弥陀様の御身(おんみ)を案じて、本堂御内陣の須弥(しゅみ)壇に馳せ参じ、両腕でしっかりご本尊を抱えて、無事ご避難をすることができた。阿弥陀様の御(おん)身が想像以上に軽かったので、勢い余ってお厨子の天井に御頭が当たりそうになった。また、お座敷におられた御母上様が腰を抜かせれて立てなくなられたので、両足をひっぱってお庭にお降ろした。京都の竜谷大で勉学中の末弟様が、安否を気遣って大土呂あたりから鉄路沿いに歩いて、泣きながら超勝寺にたどり着かれたことなどなど折にふれて聞かせていただきました。  
 近在のご門徒方は一様に被害を蒙られたこともあって、震災後の後片付けなどは遠在のご門徒方が入れ替り立ち替りご参集くださって大きなお力をいただいたと伺っております。  
 当時寺には九州の業者が大砲ジャッキという大きな機器を持ち込んで復興に当てられていたことは、目のあたりにいたしました。倒壊を免れた本堂は相当後方(北方向)に傾いておりましたので、太い丸太で突っ支い棒が何本も施されておりました。  
 ご縁があって本堂内部の修復には、永平寺の長谷川平松棟梁が直々当たられることになり、昭和二十八年に先ず、本堂虹梁の上にゆるみを締めつけるボートがしっかり取り付けられました。今もお内陣の中を見上げますとボートが生々しく見えております。続いて後堂の天井張りから須弥壇や祖師壇の修復など着々と進められてゆきました。藤島の木村正さんもその時弟子の一員として作業に従事し、当時の記憶を呼び覚してくださいました。  
 大いなるご冥助(みょうじょ)、ご門徒方のご懇念、技術者の英知、確かな技量、数多くのお手間によって超勝寺の本堂が大地震の災過から立ち直れたことは、寺門挙げての深く大きなよろこびでございます。



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