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川鰭 求聞
愚禿(ぐとく)にすすむるところさらに「私」なし
弘(ぐ)   経大士宗師等(ぐきょうだいじしゅうしとう)   
       拯済無辺極濁悪(じょうさいむへんごくじゅくあく)   
       道俗時衆共同心(どうぞくじしゅうぐうどうしん)   
       唯可信斯高僧説(ゆいかしんしこうそうせつ)


弘(ぐう)  経大士宗師等(きょうだいじしゅうしとう)   
       無辺極濁悪(むへんごくじゅくあく)を拯済(じょうさい)したまう   
       道俗時衆等(どうぞくじしゅうとう) ときに同心(どうしん)に   
       ただこの高僧(こうそう)の説(せつ)を信ずべし



 ここに揚げさせて頂いたのは昨年の暮れに京善の桜仏教壮年会の例会に出席した折に話をさせていただいた。「正信偈」の最後にでてくる四句ですが、入退院を繰り返している病身には、荷は重すぎて、大切なことを言い忘れていたような気がしてならなかったので、筆をとりました。
 「正信偈」は正しくは「正信念仏偈」といい「教行信証」の行巻の最後にでてくる御文ですが、これは浄土真宗の教えの綱(こう)格(かく)をあらわして仏恩を報謝させて作られた「漢文のうた」です。
 「教行信証」においてもこの「正信偈」においても、たびたび補筆され添削されてきたもので聖人晩年で幾度も書き加えられたものであるから、心血をそそいで作られたものであることには間違いない。  
 この正信偈が門信徒たちに仏事ごとに毎回読誦されるようになったのは、蓮如上人文明五年(一四七三)和讃とともに開版され世に出されたことによります。これが浄土真宗の法義が相続される極めて大きな素因になったことはいうまでもない。
ここに掲げた正信偈最後の四句は、七高僧のこころによって教えをほめたたえ、その結びを示されたものであるが、同時にそれは「正信偈」全体の結びとして正しい信心を進められたものです。  
 それはほとりなき五濁悪世の罪人を救わんがために力をつくされたということを示されたものです。「拯済無辺」の「拯」とは救う意味であるが、これは、たとえば溺れている人が浮かぶ力を持たないような状態を見れば助ける人が飛び込んでその人を抱えて救いあげるような場合に用いられている。如来はまさしく生死の苦悩に沈む我々を抱え込んで救いあげて下さるという意味である。「済」も救うという意味であるが、これは「わたす」という意味で苦悩の世界から安楽浄土へわたしきって下さるのが如来のはたらきであると示されたものであります。この四句の中にでてくる「拯済」という言葉は如来の深い心を示されているのであって七高僧はそれぞれそのすばらしさをお説き下さったのであります。  
 それについて親鸞聖人が進められた教えは七高僧から正しく相承されたのであって諦(あきら)かにされたものであり「愚禿にすすむるところさらに『私』なしと述べられています。
                                    合 掌



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